研修会道場の門をたたいて

学生時代に始めた合気道ですが、気が付けば20年付き合っていました。

 

当初の数年間は、合気道本来の呼吸(気)をまったくつかむことができず、力を抜かなければだめだと頭では思っていても、その存在なり価値を見いだすこともできずにいました。

 

そのため体力と技の拾得に重点を置き、それを磨くことで満足していました。

 

また同じ時期に、中国・四国地区学生合気道連盟の役員として、同地区の他大学との合気交流を通してできるだけ多くの人と接し、様々な技の研究を試みたこともありました。

 

しかしながら体が大きく、力の強い人と接すると、どうしても体が固くなり、肩に力が入り、技でねじ伏せざるを得ない自分の合気に疑問を感じざるを得ませんでした。

 

更に、体さばきと技だけでは相手によって通じない事も多く学びました。

ではどうすれば良いのか?

 

よく言われる様に、当身七割、技三割の理で良いのか?そうならば合気道と他の武道との違いは何か?

 

合気の呼吸は、技三割の中に含まれているとするならば、その程度の割合なのか?合気の根底に”呼吸(気)”があるのならば、もっと大きな割合を占めていて当然ではないのか。

 

”呼吸”は極意そのものなので目に見える部分だけを表しているだけなのか。

 

合気道とは本来力に頼らずに、自分の気と相手の気を融合し、結果宇宙と一体となるから、絶対無限の力を得るのではないのか。

 

自分との自問自答の時期を何年も過ごしましたが、回答は得られませんでした。

 

”呼吸(気)”をつかもうと、時には木刀を何度も何度も振ってみたり、ある時は師範にお願いして、「二千本稽古」と称する技を練る稽古で三時間ほど休憩なしで稽古したこともありました。

 

さすがに長時間続けて稽古すると、終わりには力が抜けて、呼吸(気)だけで技に打ち込むことができた様にも思いましたが、それでも本当のところは、自分でもよく解りませんでした。

 

呼吸(気)とは何か。

 

ぼんやりと解っていても、いつかは直に肌で感じ取ることが出来るのか?

いやいつかは、この手でつかんでみるぞ!と思ってきました。

 

そうした状況の中、研修会道場の門をたたく機会に恵まれたのです。

 

見学の時は、今まで出会ってきた合気道の中でも特に動きがやわらかいなと感じました。

 

その反面あの動きで技が効くのかな?と言う疑問が生じたのも事実です。

 

ところが二回目に胴衣を着て稽古を付けてもらった時、そういった疑問はうち砕かれました。

ごくわずかな動きで何も逆らえずに”重み(気)”を感じて、倒されてしまったからです。

 

まさに丹田に直に”重み”が伝わり”頑張れる”世界が存在しなかったのです。

衝撃と感動が同時に襲ってきました。

 

”気”で相手を倒すということは、こういう事なのか!直に肌で”気”を感じ、”気”の存在そのものを確信することが出来ました。

 

同時にこの”気(重み)”を何とか自分の物にしたいと心底思いました。

 

それにはまず頭で考えるのではなく、体で感じ、力を抜き緩め、相手の中心に向かって”重み”を乗せることを学びました。

 

ただその術(すべ)は、これから”気”を練る稽古を積み重ねることにより、拾得していきたいと思っています。

 

2000年3月8日

 

(M-3段 記)